愛しいみぅへ。
今日は、10時頃まで布団の中にいました。布団の中で、いろいろと考えごとをしてしまって……。考えていたのは、レクイエムのDIES IRAE(怒りの日)のことです。というのも、『レクィエムの歴史 死と音楽との対話』(井上太郎著、平凡社選書)に、次のようなことが書いてあったからです。
次の「セクエンツィア(続唱)」は、九世紀頃より加えられるようになったもので、十三世紀には特にたくさん作られ、その数は数千に上ったという。これは詩やあるいは音楽による注釈、宗教画になぞらえるものともいえるが、トリエント公会議では典礼に世俗的な要素が加わることを退ける方針だったので、典礼にふさわしくないとそのほとんどが禁止されてしまった。この時に公認されたのは四つにすぎなかったが、「死者のためのミサ」における有名な「怒りの日」は残ったのである。『聖フランチェスコ伝』の著者、チェラーノのトマス(一二〇〇頃-一二五五)の作といわれる長大でしかも極めて劇的なテクストは、作曲家の創作意欲を大いに刺激するものだった。そのために十七世紀後半以降に書かれるレクィエムでは「怒りの日」が特に重視されるようになる。レクィエムが典礼音楽から離れて劇場にふさわしい劇的なものとなるのは、専ら「怒りの日」の拡大によるのである。
モーツァルトがレクイエムを作曲したのは1791年(18世紀後半)で、そこには「セクエンツィア(続唱)」として「怒りの日」が入っているのですが、確かに劇的な曲がつけられています。それに、上の文章から、ヨーロッパの死生観に関わる何か重要なものが隠されているようにも思われます。それが何であるのか、例えば、死後だれもが受ける裁きのこととでもいうか、最後の審判とでもいうか、そのような考えにつながるもののようにも思えて、とにかく何か意味ありげだと……。それに、日本語訳では「怒りの日」となっていますが、これにも何か深い意味というか、ローマカトリックの一つの世界観が隠されているのではないかと……。
そんなことを考えていたら、10時になってしまったので、さすがに起きねばと思い、起きました。それからは、いつものように食事を摂ってコーヒーを飲みながらウェブのニュースをチェックして、ちょっとだけボーッとしてから体を動かして汗をかいて、シャワーを浴びて汗を流して……。
お昼は、あまり食べたくはなかったのですが、一応シェイクを摂りました。それからまたコーヒーを飲みながらウェブのニュースをチェックして……。そういえば、もうGWなんですね。長いところでは、明日から会社が休みになるのでしょうか。IPA注意喚起のニュースがありました。
GW中もUSBメモリ経由のウイルス感染に注意、IPAが呼びかけ
個人所有のUSBメモリを会社のパソコンに挿したり、会社のUSBメモリを個人のパソコンに挿したりするのはいけないってことは、つまり仕事を家に持ち帰るなってことなんでしょうね。もちろんそこまでは書いてありませんが……。
ところでみぅは、長期休暇を取るのかな……。