愛しいみぅへ。
今日は10時まで寝ていました。起きたら朝食を摂って、コーヒーを飲んで、ウェブをながめて……。
お昼はバナナ1本で済ませました。午後は、ウェブを少しながめて、少し読書して、横になって休んで、また少し読書して、ウェブをながめて、夕食の支度をして……。
夕食は、カレーライスと、刻んだキャベツで済ませました。夕食の後片付けが済んだらコーヒーを飲んで、メールチェックして、そしてみぅへのメール書きです。
今日の脳調は、一応落ち着いていました。朝はだいぶのんびりしていましたが、それなりに過ごしていました。
さて、羽黒山と関わりの深い蜂子皇子のことを記してみたいと思っているのだが、その背景がいろいろありすぎてまとめきれないので、思い付くことを上げてみる。
まず、蜂子皇子が都にいた頃は、排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏が争っていた。
蜂子皇子の父親は崇峻天皇であるが、崇峻天皇の時代に疫病が起こり、この原因を、他国から流入した仏教のせいにして、蘇我氏の邸宅とそこにある寺を焼き払ったが、疫病は治まらなかった。そのやり方に反感を持った蘇我氏が、崇峻天皇を討った。このとき蘇我氏は、崇仏派の皇族を次期天皇に推していた可能性がある。
蘇我氏が崇峻天皇を討ったとき、聖徳太子は既に崇仏派で、蘇我氏とも関わりが深かったことが予想される。
崇峻天皇が討たれた後、蜂子皇子は聖徳太子にかくまわれ、京都の由良から鶴岡の由良に落ち延びたことになっているが、これは島流しのようにも思える。
物部氏の伝承が秋田に残っているのは、蘇我氏により都から一掃された物部氏の子孫が、秋田に流された可能性を示唆しているように思える。
羽黒山と秋田との間には、鳥海山があり、鳥海山の南側には出羽城輪柵があったが、これは、蜂子皇子と物部氏の子孫が再び結びつくことのないようにするためと思われる。
蜂子皇子は、出家してから鶴岡の由良に上陸、羽黒山に入ったようだが、そこでは参仏理大臣(みふりのおとど)と周囲に呼ばせていたことが知られている。これは、仏教を信仰していることを示す意図があったのではないかとおもわれる。
蜂子皇子はやがて能除太子として人々に慕われるようになるが、おそらくは仏法に従って人々の悩みに応えていたのではないかと思われる。
とまあざっとこんな感じなのだが、これらにはもちろん私の推論も含まれる。
そんなわけで、いつもながらのお付き合い、ありがとうございます。
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