いろいろなモツレクを聴き進んでいくにつれて、一つの疑問が浮き上がってきました。それは、「聖体拝領誦」が、レクイエムを締めくくるのに、あまりにもふさわしくない旋律であると言うことです。聖体を拝領する、きわめて神聖で、魂が天に召されることを表現するべき曲が、入祭誦とキリエの繰り返しというのは、あまりに雑すぎます。
もし私がモーツァルトであるなら、入祭誦とキリエを参考に、聖体拝領にふさわしい美しい旋律、そう、光明を感じさせるような神々しい旋律で終わることを願うでしょう。にもかかわらず、ジュスマイヤーは、あろうことか、入祭誦とキリエをほとんどそのまま使うという暴挙に走りました。これには納得いきません。
素人の私でさえこのようなことに疑問を持ったのですから、プロの演奏家や音楽研究家が不思議に思わないはずはありません。その証拠を見つけました。
がそれです。聖体拝領誦の途中で演奏を止めてしまったというのですから、それが何よりの証拠です。
故人の御霊が天に召される様子を思い起こさせるような、美しい旋律でなければならないし、モーツァルトもそれを望んでいたのではないのだろうか、それが私の聖体拝領誦に対する意見です。
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